クラレイ株式会社CRALAY

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淡路の玉ねぎが縁になったクラレイ誕生の歴史

クラレイ株式会社の創業者、沖圓一社長の出身地、兵庫県・淡路島。 小倉の地に、クラレイ株式会社が誕生した歴史には、淡路島特産の玉ねぎが深くかかわっています。


戦前、戦後の混乱期を経て、沖圓一社長は1952年(昭和27年)、クラレイの前身である食料品問屋、「東和水産株式会社」を立ち上げました。本社は大阪市此花区。


そこで地域に密着した製氷と、淡路の玉ねぎを主体とした集荷、配送の物流基地としての冷蔵倉庫建設を思い描いていた沖圓一社長は、北九州市(当時は小倉市)の青果、魚市場関係者から小倉市に冷蔵倉庫を建設しないか、との打診をもらいます。

沖圓一社長は、東和水産の社名を「小倉製氷冷蔵株式会社」と変更し、本拠地を小倉市に移転することを決意します。1954年(昭和29年)のことでした。


現在の北九州市小倉北区浅野の1,500平方メートルの敷地に、鉄筋コンクリート2階建て、2298平方メートルの浅野工場を建てました。


約3,000トンが収容できる冷蔵倉庫は、当時国内有数の大型営業冷蔵倉庫でした。

冷蔵倉庫業の歴史

小倉は製氷から始まった
小倉のスタートは、「製氷」からでした。

1955年(昭和30年)7月、一部の冷凍機の運転を始めました。
この時期、水産業の目覚ましい躍進に伴い、海氷の需要も旺盛でした。
日産15トンの工場を二交代制で、日産24トンまで高め、従業員一丸となって開業時を乗り切り、それからの草創期の10数年間は冷蔵倉庫業務と共にクラレイの屋台骨を支えてきました。

昭和50年代に入り、家庭用電気冷蔵庫の普及に伴い、氷の需要も減退、1984年(昭和59年)には採算上の観点から角氷の生産・販売からの撤退を決定、カチワリ氷の生産・販売のみを行って来ましたが、2002年(平成14年)2月に浅野工場の老朽化を受けて、製氷の歴史の幕を閉じました。

冷凍鯨の入庫
昭和30年代前半には、南氷洋捕鯨船団の北九州市入りに伴い、浅野工場で冷凍鯨の保管業務を手掛けました。
事前に設備投資を進めたおかげで合計1,400トンを搬入することができました。
冷凍鯨は、鮮度保持のため、グレージング作業が必要でした。この作業が室温マイナス26度の凍結庫内で水を使うため一番辛い作業でした。

アイスクリームの保管
鯨肉の搬入が減少していった昭和30年代半ば以降、アイスクリームが主力貨物の一翼を担いました。
アイスクリームは夏場の需要に備えてメーカーから一気に大量の入庫があります。
当時は社員数も少なく、工務・製氷・事務所から応援を頼み、全社一丸で作業にあたりました。
当時の冷蔵倉庫荷役は全て手作業。3,000ケースにもなるアイスクリームの入庫作業も、コンベアーから部屋の中まで5人ぐらいが並び、手渡しで積み込みました。
所要時間は約3時間、凍結庫内の室温は今ほど厳しくないマイナス18度ぐらいでしたが、沖俊作社長は「長時間連続作業だけに寒くもあり、中々辛抱のいる作業だった」と振り返ります。

商品開発の歴史

時代を先取りしたブリの凍結
昭和30年代は、独自商品開発を試みた時期でもありました。クラレイは脱保管業を目指し、冷凍水産物加工を模索。その一つとして目を付けたのが、ブリの凍結でした。当時、天然ブリが大量に捕獲されました。さばききれないほど大漁だと価格は急落し、捕れなければ価格は急騰。漁師の悩みの種でした。
ブリがたくさん捕れた時に凍結・保管し、不漁の時に出荷すれば、ブリの価格調整の一翼を担うことができます。そこで冷蔵倉庫業として、ブリの凍結保管に乗り出しました。ただ、魚といえば鮮魚の時代。当時、冷凍魚はまだ一般消費者に受け入れられませんでした。
冷凍魚が一般に認知された今、養殖ハマチの凍結輸出がさかんに行われています。ブリの凍結保管は、時代を先取りしすぎたとはいえ、現在に続く大きな布石になりました。

大正海老の商品化
クラレイが昭和30年代に開発した数ある商品の中でロングセラーとなったのが、大正海老の尾数だて凍結商品でした。
クラレイブランドとして、東京以西で息の長い商品として消費者にご愛顧頂きました。
クルマエビ科の大型エビである大正海老は、黄海、東シナ海などで捕れます。この海域で大正海老などを捕獲していたのが、以西底曳網漁の船です。
当時の以西底曳の船には凍結設備がなく、漁獲された大正海老などは全て氷詰めで博多・長崎・下関などの漁港へ水揚げされていたため、水揚げ後の鮮度保持と素早い加工技術にその価値の全てが掛かっていました。 地の利と人材・設備に勝っていた当社商品がご愛顧頂いた理由がここにあり、その技術は今尚現在の加工部へ引き継がれています。

海外挑戦の歴史

「冷蔵倉庫業」から「水産物輸入販売業」へ
1972年(昭和47年)、クラレイでは水産物の卸売り業務を目的として、商事課が発足しました。
海外からの水産品、農産品、畜産品の輸入、販売を担う現在の商事部です。
200カイリ(海里)経済水域の問題に日本が揺れている時期。
沿岸国が漁業資源の管轄を主張し、他国に自由な操業を認めない水域の設定は、日本の遠洋漁業に大打撃を与え、「捕る漁業」から「買う漁業」へと転換させました。
水産会社が他国海域から魚を捕ってくる時代から、水産会社が海外の水産物をこぞって買い付ける時代になったのです。
200カイリ問題は、クラレイが創業時からの主事業だった冷蔵倉庫業から、水産物輸入販売業に事業のウエートを移していくきっかけになりました。
クラレイは商社と組み、社員は海外買い付けに奔走しました。
エビなどの水産物の輸入を増やし、輸入アイテムは200カイリ問題前に比べて増大。業績は、急速に拡大していきます。
積極的に海外に飛び出した挑戦が、今も実を結んでいるのです。
海外プロジェクトへの挑戦
加工部(当時は加工販売部)の印度(インド)プロジェクトは、クラレイにとって初の海外プロジェクトでした。
為替が1ドル200円台に突入し、国内での輸出加工の利益が出なくなり始めた1978年(昭和53年)。インドに技術者を派遣し、現地で米国向けに食用蛙の輸出を試みました。

当時のインドのデサイ首相が菜食主義者という理由で蛙の捕獲を禁止するなど、さまざまな困難も発生。
紋甲イカ、ロブスター、太刀魚などに商材を増やしながら奮闘しました。

異国の地での経験で、クラレイの加工のポリシーは決まりました。

すなわち、「良い製品は良い原料からしか出来ない」ということでです。

インドの経験はその後の「北米プロジェクト(ズワイガニ買い付けプロジェクト)」に生かされ、ズワイガニはクラレイを代表する商品に成長しました。